臨済宗

臨済宗のはじまり


 仏教がインドで生まれて、中国に伝わったのは、達磨(だるま)大師によるものといわれています。そのときに禅の教えが中国に広まりました。そして、禅は時代が進むとさらに、「五家七宗(ごけしちしゅう)」と呼ばれる、さまざまの宗派に分かれていきました。唐の時代に生まれた臨済宗もその中の一つです。

 臨済宗をはじめた人は、臨済義玄(りんざいぎげん)といいます。20歳のころに出家した臨済禅師は、各地をめぐり修行をしましたが、お経の知識を得るだけでは満足できませんでした。そんなときに黄檗希運(おうばくきうん)禅師に出会いました。黄檗禅師のもとで修行をした臨済禅師は、さらにすすめられて大愚(たいぐ)禅師のもとで修行をし、さとりを開きました。

 ちなみに、「臨済」とは「川の渡しをのぞんだところ」という意味で、そこ(臨済)にあった小さなお寺に義玄禅師が住んでいたことから、「臨済宗」といわれるようになりました。

 


臨済禅師の教え

 臨済禅師の教えは、
(1)自分のことをよく知ること。
(2)どんな状況に置かれても、自分を見失わないようにする。
(3)あれこれ考えすぎない。
 というものです。

 そして、自分と向き合ったり、心を落ちつけたりするために坐禅をすることから、臨済宗は「禅宗」の一つといわれています。

 


禅宗の教え

 禅宗は、達磨大師という方がインドから中国に伝えた仏教です。

 達磨大師から数えて十代あとが臨済禅師です。

 達磨大師の伝えた禅の教えとは、
(1)お経は大切だが、意味を理解するだけでは十分ではない。
(2)仏教は心で感じ、体験によって身につくものである。
(3)自分にも、お釈迦さまと何も変わらない、同じ心があることに気づきなさい。
(4)みんな、そのままで仏さまである。
 というものです。

 


日本に伝わった臨済宗


 臨済宗が日本に伝わったのは、鎌倉時代のはじめごろ、栄西(えいさい)禅師によってです。はじめのうちは新しい宗教ということで京都では布教できず、鎌倉で源頼朝など武家を中心に広まりました。やがて、鎌倉時代も中期になると中国から高名な僧が来日し、鎌倉に大きなお寺を建てました。このころから京都でも少しずつ「禅」が根づいていきました。

 室町時代になると、臨済宗は幕府などの武家だけでなく、朝廷(公家)にも受け入れられました。禅宗が建築や庭園、文学など文化に影響を与え、権力者と結びついていた一方で、禅の教えを守り修行を続けていた宗派がありました。現在、残っている臨済宗の14の宗派が、その流れをくんでいます。その14派の中の一つ、臨済宗妙心寺派が萬福寺の宗派です。

 


妙心寺のはなし

 萬福寺の本山(ほんざん)である妙心寺は京都にあります。本山とは、宗派の中心となるお寺のことです。

 妙心寺は室町時代、もともと花園天皇の離宮をあらためて禅寺としたものです。花園天皇は、のちに出家して花園法皇となり、自ら禅の道に進まれました。

 花園法皇は、禅の教えを宗峰妙超(しゅうほう・みょうちょう)禅師(大燈国師)から学びました。「正法山(しょうぼうざん)妙心寺」とは、妙超禅師が名づけたものです。

妙超禅師は重い病気になると、自分のあとは弟子の関山慧玄(かんざん・えげん)禅師(無相大師)を師とするよう花園法皇にすすめました。妙超禅師が亡くなると、花園法皇は、慧玄禅師を探し出し、妙心寺にむかえました。

 花園法皇は、52歳で崩御(ほうぎょ)されますが、その前年に遺言を慧玄禅師に書き残しています。その内容は、「前の師である妙超禅師の恩に報い、徳に感謝し、仏法を弘(ひろ)めようとする願いは、寝ても覚めても忘れたことはなく、たとえ自分が世を去っても、この願いを果たしてくれるのは、慧玄禅師をおいてほかにない。」というものでした。

 花園法皇によって、妙心寺の初代住職(開山さま)にむかえられた関山慧玄禅師は、みずから説法集を書かず、自分の肖像画を残すことも禁じました。自分の名を残すより、後世に仏法を弘めるという花園法皇の願いをかなえるため、すぐれた弟子を育てることに力を注いだからです。

 慧玄禅師は亡くなる直前、跡をつぐ授翁宗弼(じゅおう・そうひつ)禅師に、「たとえ私のことは忘れても、大変な思いをして中国に行って仏教を日本に伝えた南浦紹明(なんぽ・じょうみょう)禅師(大應国師)や、私をきびしく指導してくれた妙超禅師のことを忘れてはならない。そして目先のことにとらわれず、ものごとの根本を見失うことなく努力せよ。」と言い残し、84年の生涯を閉じました。

 


江戸時代の臨済宗

 江戸時代は、臨済宗の明暗の分かれた時代でした。「檀家制度」ができたのはこの時代です。キリスト教を禁止していた江戸幕府によって、臨済宗は保護されました。檀家制度によって生活を保障された僧たちは、布教や修行をしなくなってしまいました。

 そんな中、臨済宗を立て直したのは、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師と白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師の二人でした。彼らは、分かりやすい言葉で人々に禅を伝えました。とくに白隠禅師は臨済宗の「中興の祖(ちゅうこうのそ)」といわれ、今の日本の臨済宗のほとんどは、その流れをくんでいるといわれています。

 


 

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