智慧(ちえ)のことば

いのちと申すものは、一切の財(ざい)の中に第一の財なり。

意味:命というものは、あらゆる大切なものの中でも、一番大切なものである。

日蓮(にちれん):日蓮宗の開祖

 鮭(さけ)は一匹につき、約三千もの卵を産むといわれています。しかし、そのうち成長して戻ってくるのはわずかで、ほとんどはトドやアザラシなどに食べられてしまうそうです。魚にしてみれば、食べられるために生まれてきたわけではないでしょうが、命を支えるものは、これもまた命でしかありません。大切にいただきましょう。


おのれの愛(いと)おしさを知るものは、他のものを害してはならない。

『相応部経典(そうおうぶきょうてん)』

 女優オードリー・ヘプバーンは、60歳で引退して63歳で亡くなるまで、ユニセフ親善大使として尽力しました。貧しくても笑顔を忘れない子供たちの姿に、幼い日の自分自身を見ていたといいます。生前、彼女が二人の息子に読み聞かせた詩の一節にはこうあります。「年をとれば、君は二つの手を持っていることに気づくだろう。一つは自分を助ける手であり、もう一つは他人を助ける手であることを。」


愚(おろ)かに迷い、心乱れている人が百年生きるよりは、智慧(ちえ)があり、思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

『法句経(ほっくぎょう)』

「智慧(ちえ)」とは、知識の有無ではなく、ものごとを正しく見て、何の曇(くも)りもなく判断することです。例えば、鏡に映るものには美しいものもあれば汚いものもあります。けれども、鏡はそんな区別をつけないで、ありのままにそのものを映します。自分勝手な、かたよったものの見方を捨てなさい、というお釈迦さまのことばです。


過去を追うことなかれ。未来を願うことなかれ。およそ過ぎ去ったものはすべて捨て去られたのであり、未来はまだ到達していないのである。

『中部経典(ちゅうぶきょうてん)』

 お経のなかには、納得できないものもあります。この経典の言葉「過去を追うな、未来を願うな」ということは、「いまを生きろ」ということなのでしょう。しかし、ふり返る思い出があることや、将来に期待することが、そんなに悪いことだとは思えません。それらは切り離せないものです。お経は答えではなく、答えを出すための道しるべなのかもしれません。


心を直(なお)さぬして学問して何の詮(せん)かある。

意味:心をまっすぐに正さない学問をして、どういう効果があるというのか。

叡尊(えいそん):真言律宗の僧

 学問というと、単語を暗記したり、公式や年号をおぼえたりすることを思い浮かべてしまいます。でも、それでは知識を増やすだけの学問です。叡尊にとって学問とは「心を直すもの」でした。学問によって人生の経験不足をおぎなったり、知らないことの多さから自分の未熟さに気づいたりすることができるのです。学問をすることで、思いあがった心が生まれることは、叡尊には認められないものでした。


さびは鉄から生じて、鉄自身を損なわせる。人間も悪いことをすれば、その行いによって自らを苦しめることになる。

『法句経(ほっくぎょう)』

 ついてしまったうそを隠すために、さらにうそをついてしまう・・・。そんな経験をしたことはありませんか。一度、悪いことをしてしまうと、二度目からは、反省の気持ちが薄れていくかもしれません。しかし、悪いことをしたあとの気分はどうでしょうか。悪人が悪いことをするのではなく、悪い行いが悪人に変えてしまう、ということを忘れないでください。


人生は、やり直すことはできないが、見直すことはできる。

金子大榮(だいえい):真宗大谷派の僧

 発明王エジソンは、最初の電球を作るまで、1万回も実験したそうです。友人は「1万回も失敗したのか」とあきれますが、エジソンはこう答えます。「いや、私は一度だって失敗したことはない。ただ、うまくいかなかった9999回のやり方を発見しただけだ。」見直すことのできる過去は財産です。初めから、うまくいくものと分かっていることなど、無いのですから。


たとえ、法然(ほうねん)上人(しょうにん)にだまされて念仏を信じて地獄に落ちたとしても、決して後悔はしない。

親鸞(しんらん):浄土真宗の開祖

 親鸞は、9歳で出家してから約20年間、比叡山で修行していましたが、そこでの教えに納得できずにいました。そのとき出会ったのが、浄土宗を開いた69歳の法然です。それまでの仏教は、きびしい修行やむずかしい教義を理解するものでしたが、法然は、念仏をするだけで阿弥陀さまが救ってくれると説きました。親鸞にとって、自分を迷いから救ってくれた法然こそ、阿弥陀さまだったのでしょう。


願わくはこの功徳(くどく)をもってあまねく一切に及ぼし、我らと衆生(しゅじょう)とみな共に仏道を成ぜんことを。

『普回向(ふえこう)』

 車を運転していて、駐車場から出てくる車に道をゆずった時、軽く頭を下げられました。名古屋の地下鉄で、お年寄りに席をゆずったら、とても喜んでくれました。人に親切にすることで、かえって自分がうれしい気持ちになります。「しあわせ」とは自分だけでなく、「みな共に」なるものだと、この言葉は教えています。


一つのことを何度聞いても、そのたびに珍(めずら)しい話を初めて聞くかのように心がけることが、教えを信じるうえで必要なのである。

蓮如(れんにょ):浄土真宗の僧

「吃驚(びっくり)したいというのが僕の願いなんです。」明治の作家、国木田独歩(くにきだどっぽ)は『牛肉と馬鈴薯(ばれいしょ)』のなかで主人公にこう語らせています。知らないことを知ったときの驚きや面白さは、知ってしまったあとでは、もう二度と得ることはできません。しかし、たとえそうであっても、何度も学んでいくうちに、さらなる驚きがあるかもしれないのです。


よき者を選んで友としてしたがい、悪しき者はこれを遠ざけよ。

『六方礼経(ろっぽうらいきょう)』

「こんなお経があるのか?」と驚かれた方もいることと思います。しかし、「友人を選びなさい」と、言葉どおりに受け止めてはいけません。この言葉は、自分が選ぶだけではなく、選ばれる、つまり「人から友として選ばれるような自分になりなさい」という教えなのです。では、「よき者」とはどんな人なのでしょうか。また「悪しき者」とはどんな人をいうのでしょうか。それぞれ考えてみてください。


 

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