十牛図

第1図.尋牛(牛を探す)


 

 「十牛図」は、中国の宋の時代の禅の入門書です。

 絵には、それぞれ漢文の「序(じょ)」と漢詩の「頌(じゅ)」がつけられ、禅の考えや絵の説明が書かれています。漢詩(頌)は廓庵師遠(かくあんしおん)禅師が作り、序は弟子の慈遠(じおん)禅師がのちに付けました。「十牛図」の絵はさまざまな種類のものがありますが、ここでは、天理大学付属天理図書館蔵のものを見ていきます。

 「十牛図」には、一頭の牛が登場します。牛は普段はおとなしく、物静かでありながら、あばれると非常に強く、手がつけられなくなります。その姿はまるで、人間の心の様子に似ています。

 自分の牛を探し求める、つまり自分の本当の心を探すところから、物語は始まります。


― 序 ―

 はじめから失っていないものを、どうして探し求める必要があるのだろうか。

 せっかく持っているものに背を向けているから、大切なものを見失ってしまう。

 自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく。

 炎が燃えさかるように損得で物事を考え、刀の穂先が次から次にわき起こるように善悪で物事を判断しようとするから、自分を見失い、大切なものに気づかなくなるのだ。


― 頌(じゅ) ―

 あてもなく、草むらを分け入って探し求めていく。

 湖は広く、山は遠くに見え、道はますます果てしない。

 力は尽き、精神も疲れるまで探しているのに、何の手がかりもない。

 聞こえてくるのは、カエデの木にとまる、夏の終わりのセミの鳴き声ばかりである。


 禅ではよく「自分を見つめなさい」といわれます。第1図「尋牛(じんぎゅう)」には、牛(自分)を探しはじめた人の様子が描かれています。

 では、「自分で自分を探す」とはどういうことでしょうか。それは、自分のことをよく知ることです。自分のことを知ることで、自分にとっての幸せとは何か、考えられるのです。大切なものが分かれば、生きることに目標を持つことができ、迷いがなくなります。

 しかし、この「自分にとっての大切なもの」に気づくことが難しいのです。病気になってはじめて健康の大切さを知るように、あたりまえの幸せには、なかなか気づけません。他人と比べて、自分に足りないものばかりを見てしまいます。さらに、知識や経験が増えてくると、自分が一体どうしたいのか、分からなくなってしまうでしょう。

 自分にとっての幸せは、本人にしか分かりません。だれも自分の代わりに「大切なもの」を探してはくれないのです。そして、それを見つけることは簡単なことではありません。しかし、まず探しはじめたことに意味があるのではないでしょうか。


第2図.見跡(牛の足あとを見つける)


 

 前回は、第1図「尋牛(じんぎゅう)」を見ました。ふと、ある人が牛(自分)を探しはじめました。それは、「自分にとっての幸せとは何か」を探す旅です。

 そして、今回の第2図「見跡(けんせき)」では、牛の足あとを見つけたところが描かれています。「足あと」ですから、まだ牛そのものではありません。ようやく自分を知る手がかりをつかんだ、というところです。

 さて、仏教では、一点のくもりもない月のことを「さとりの心」にたとえ、それを指し示す指を「お経や言行録」にたとえます。言行録とは、名僧といわれる人々の言葉や行いを記録したものです。

 指をいくら見つめても、月は分かりません。同じように、お経の意味を知るだけでは十分ではないのです。あくまでも、お経や言行録は「自分を知るきっかけ」で、自分そのものではありません。道に迷ったときの参考にはなりますが、目標にはなりません。大切なのは、自分の月(目標)を見失わないことなのです。


― 序 ―

 お経によって仏法の意味を理解し、教えを学んでようやく牛の足あと(自分を知る手がかり)に気づいた。

 お経を読むと、どんな形の器でも、もともと同じ金属でできているように、あらゆるものの存在が自分とつながっている、ということが分かる。でもそれは、お経に書かれてあることを理解できたというにすぎない。

 何が「正しく」て、何が「間違い」なのか、はっきりとわきまえることもできないのに、お経に書かれていることを鵜呑(うの)みにして、本物と偽物をどうして見分けることができるだろうか。

 自分の頭で考えていないこの段階では、まだ禅の門に入っていない。(牛そのものを見つけていない。)とりあえず、「足あとを見つけた」ということである。


 歩きまわって疲れが限界にきていた旅人は、自力で牛を探すことをやめました。そこで、お経を読み、いろいろな人から教えをうけて牛のゆくえを追いました。そのたびに、いったい、誰の言うことが正しいのか、何を信じればいいのか分からなくなってきました。なぜなら、お経に書かれたり教えられたりした牛は、自分の牛ではないからです。

 でもそれは意味のないことではありません。他人の牛でも、牛は本当に実在することは分かったからです。足あとをたどれば、自分の牛は見つかることでしょう。


― 頌(じゅ) ―

 じつは、今まで歩いてきた湖のほとりや林の中の、いたるところに牛の足あとはあった。

 道ばたには、牛の食べるよい香りのする草(お経や言行録)がたくさん生えているのを見ることができる。

 たとえ疲れきって、方角も分からない深い山の、さらに奥深いところにいるとしても、

 天に届くほどの牛の鼻は、隠すことはできない。


第3図.見牛(牛を見つける)


 

 第1図「尋牛(じんぎゅう)」で牛を探していた旅人は、第2図「見跡(けんせき)」で牛の足あとを見つけました。そして、この第3図「見牛(けんぎゅう)」にいたり、ようやく牛を見つけました。しかし、牛はその姿の一部しかあらわしていません。

 向かいあう旅人と牛。そこには、まだ少しの距離があります。つかまえようとすれば、牛は逃げてしまうかもしれません。

 牛は、「こうなりたい」という自分自身の姿です。お経の教えや他人の人生を参考にしながら十分考えた、自分だけの目標です。

 目標があれば、そのためにするべきことが何なのか、自然に分かるようになります。そして、その目標に近づくために必要なものは、自分の本来持っている感覚や日々の行いなど、決して特別なものではない、というのが「十牛図」の教えです。

 さて、目標を追いかけてきた自分は、やがて目標によって成長していきます。こうなれば、もはや自分と牛(目標)とは別のものではありません。


― 序 ―

 牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくのことでその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。

 自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。

 だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。

 まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。


 旅人は、何の手がかりもないところから、お経などの言葉によって足あとを見つけ、ついに鳴き声によって牛の姿を見つけました。

 しかし、この鳴き声も、旅人がほかの事に気をとられて注意していなければ、聞こえなかったでしょう。

 牛の鳴き声に気づくきっかけは、人によって違います。足あとだったり、においだったり、ひょっとして偶然かもしれません。でも、いずれにせよ、どんなに小さな鳴き声でも聞きのがすまいと思っていたからこそ、聞くことができたのです。


― 頌(じゅ) ―

 うぐいすが枝の上で鳴いている。

 春の日は暖かく、風はなごやかに吹き、川岸の柳は青々としている。

 そんな光景のなか、見るもの聞くもの、すべてが牛になってしまった。こうなっては、どこにもこの牛から逃げられる場所はない。

 さて、その牛の頭には美しい角がある。その角を、どんなに上手に描いてみても、本物の美しさには、かなわない。


第4図.得牛(牛をつかまえる)


 

 これを読んでくださっている人の中には、何か新しいことを始めてみようとしている方もいらっしゃると思います。どんなことでも、最初のうちは身につくまでに時間がかかるものですが、続けていけば、いつの間にかできるようになっていきます。

 今までできなかったことが、当たり前のようにできるようになるためには、多くの迷いや悩みを自分なりに解決しなければなりません。でも、その道のりで得たものは、本当に「身についたもの」になると思います。

 さて、十牛図の第4図「得牛(とくぎゅう)」を見てみましょう。「十牛図」といいながら、牛の全身が描かれているのは、今回が初めてです。

 旅人は、牛を探し、足あとを見つけ、牛の姿を見ることができました。牛は自分の心です。

 旅人は、牛に縄をかけてつかまえました。でも安心はできません。油断をすれば、牛に引っ張られてケガをするし、見失ったり、道に迷ってしまいます。

 旅人が牛(自分の心)をおとなしくできるのか、それとも牛に引きずられてしまうのか。お互いを結ぶものは、一本の縄だけです。


― 序 ―

 その牛は、長いこと野外の草むらにかくれていて気づかなかったが、今になってようやく会うことができた。

 しかし、その喜びの心境は、「牛に出会えた」ということで満足してしまい、かえって牛に追いつくことを難しくするし、また牛のほうでも、すきをみては香りのよい草を求めて草むらに逃げていこうとしてしまう。

 やっとの思いで牛をつかまえてはみたものの、その心はかたくなで勇猛であり、いまだ野性のままである。

 この牛を飼いならそうと思うのなら、ムチを使って、いましめなければならない。


 坐禅をしたことのある人は、静かな場所ですわっていると、いろんなことが次々と思い浮かんできて、とても集中できない経験をしたことと思います。十牛図では、あばれる牛にたとえられています。

 坐禅にかぎらず、何かを身につけたいと思うなら、まずは、なれることが大切です。はじめのうちはできなくても、何度もやってみるうちにできるようになるかもしれません。「いつかはできるようになる」と思いこめば、続けていくことができるでしょう。

 自分が成長したことは、自分が一番気づきにくいのです。


― 頌(じゅ) ―

 精神をさらにつくして、自分の牛をつかまえた。

 しかし、この牛は野性の心が強く、力はさかんで、すぐにその荒々しい心や力を取りのぞくのは難しい。

 あるときは、ほんの少しの間、高原の上にいるような、目の前が開けた心境になったように思えても、

 またいつの間にか、煙のような雲につつまれて、その深いところに入りこんでいくように、自分の(牛の)心はとめどがない。


第5図.牧牛(牛を飼いならす)


 

 前回までのおさらいです。

 まず、第1図「尋牛(じんぎゅう)」では、「自分にとっての幸せや目標とは何か」を考えはじめ、第2図「見跡(けんせき)」では、その手がかりを見つけました。

 次に、第3図「見牛(けんぎゅう)」のところで、その目標がはっきりと姿を現しました。そして、目標に向けて行動を起こしていくのが第4図「得牛(とくぎゅう)」で見てきたところです。

 さて、今回は第5図「牧牛(ぼくぎゅう)」を見ていきます。牧牛とは、「牛を飼いならす」という意味です。

 牛とは、自分自身のことでした。自分にとっての幸せや、こうなりたいという目標をあらわしているのです。つまり、自分自身を飼いならすとは、自分のことを本当に知る、自分の知らない自分に気づく、ということです。

 図をみると、旅人は牛の先に立って歩いています。牛の色が前回まではついていましたが、色がなくなりました。一見、牛はおとなしくなったようですが、まだ綱を手ばなすことはできません。


― 序 ―

 ふと、迷い(自分勝手なものの考え)や悩みが生まれてしまうと、そこからいろんな思いが浮かんできて、次々にあふれ出てきてしまうものだ。

 大切なのは、その迷いや悩みを自覚することで、本当の自分に気づき、ものごとの真実をつかむことができるようになることである。反対に、自分の迷いや悩みを見て見ぬふりをしていれば、いつまでたっても間違ったものの見方をしてしまうであろう。

 目で見たり、耳で聞こえたりすることを、見たまま、聞いたままに受けとめるということは難しい。ものごとがさまざまに見えるのは、自分の心をとおして、ものごとを見ているからである。

 では、せっかくつかまえた牛(自分)を逃がさないためにはどうすればいいのだろうか。それは、牛の鼻にむすんだ綱をしっかりと引いて、ためらわずに進むことだ。


 人は、日々の生活のなかで、さまざまなことを学びます。しかし、その学んだ知識や、つみ重ねた経験があればあるほど、自分の目指すものが本当にそれでよいのか、迷いが出てきてしまうこともあるでしょう。この迷いがあるために、「十牛図」の旅人は、まだ牛(目標)の綱をはなすことができません。

 でも、生きているかぎり、不安や悩みはついてくるものです。大切なのは、「できるか、できないか」ではなく、「そうなりたい」と思う気持ちかもしれません。


― 頌(じゅ) ―

 片手にムチを持ち、もう片手には手綱をにぎり、かたときも離してはならない。

 それは、牛が勝手に歩きだして、ふたたび草むらに入ったり、道に迷いこんだりしてしまいかねないからである。

 ところが、少しずつ飼いならしていくと、牛は次第におとなしくなってくる。

 こうなれば、もはや手綱でしばらなくても、牛のほうから後をついてくるようになるのである。


第6図.騎牛帰家(牛に乗って家に帰る)


 

 お彼岸のお中日(ちゅうにち)にあたる春分・秋分の日には、太陽は真東からのぼり、真西にしずんでいきます。昔の人は、夕日を見ながら西方浄土を信じ、亡くなったご先祖さまに思いをめぐらしていたのかもしれません。

 さて、「十牛図」も後半に入ります。牛を飼いならした旅人が、その牛に乗って家に帰る「騎牛帰家(きぎゅうきか)」の場面です。

 旅人は、見つけた牛(目標)を何とかつかまえ、飼いならしていくうちに、牛と自分がぴったりと、ひとつのものになっていることに気づきました。

 絵には、牛の背中で笛を吹いている旅人の姿が描かれています。手綱もにぎらずに、牛の進むにまかせています。

 その行き先は、彼らの家です。「十牛図」は、突然、ある人が牛を探して旅に出たところからはじまりました。その旅も今回で終わりです。自分たちの本来いた場所に、戻っていくのです。


― 序 ―

 旅人と牛との戦いはすでに終わり、何かを得ることも失うこともなく、すべては元に戻った。

 旅人は、きこりが木を切りながら歌うような、素朴な歌を口ずさんだり、子供のように、思いつくがままに笛を吹いたりしている。

 体を牛の背中に横たえて、牛の歩みにまかせていくと、目の前には、雲の向こうに大空が、はるかかなたまで広がっているのが見えてくる。

 もはや牛は、呼んでも振り返ることはなく、取り押さえても、歩みを止めることもない。


 旅人は、なぜ楽しそうに歌を歌ったり、笛を吹いたりしながら、のんびりと家に帰って行くのでしょうか。「十牛図」の説くところには、旅人も牛も、もともと同じもので、やっとの思いで牛をつかまえ、手なずけても、「元に戻った」にすぎないのです。

 それでも旅人が満足しているのは、誰に言われるでもなく、自分から牛を探しはじめたからではないでしょうか。自分の足で歩きまわって、いろいろ大変な思いをしてきたことは自分だけの財産です。「元に戻った」ことと、「何もしなかった」ことは同じではないのでしょう。


― 頌(じゅ) ―

 人が牛に乗って、ゆらゆらとゆられながら家に帰ろうとしている。

 その人の吹く笛の音が、あたり一面に鳴りひびいて、夕焼けの雲を送っていく。

 その拍子(ひょうし)や歌のひとつひとつには、限りない思いがこめられている。

 その音色にこめられた思いが分かるなら、あれこれと説明する言葉など必要ないだろう。


第7図.忘牛存人(牛のことを忘れる)


 

 キャッチボールの基本は、相手をしっかり見て投げることだといわれます。同じように、毎日の生活でも目標を見定めることは大切なことです。

 それでは、禅の目的とは何でしょうか。禅の教えとは、物事にこだわらず、あるがままの心を持つことで、自分を見失うことなく生きることができる、というものです。「こうでなければならない」というのは、きゅうくつな生き方である、と禅は説きます。

 「金剛経(こんごうきょう)」というお経には、次のような教えがあります。

 「お釈迦さまはいつもおっしゃいました。『修行をする人たちよ。私の説法は、筏(いかだ)のようなものだと心得なさい』と。」

 筏(いかだ)は、川を渡るためには必要なものです。しかし、川を渡ったあとも、いつまでも筏(いかだ)をかついでいるのでは、かえって荷物になるばかりです。病気が治ったのに薬を飲みつづければ、薬も毒になります。仏教もまた同じなのです。

 それでは「十牛図」の第7図、「忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)」を見ていきましょう。


― 序 ―

 これまで、牛があたかも人とは別のものであるように描かれていたが、それは仏の教えを説くためのたとえであって、もともと仏の教えは二つでないように、牛も人も一つのものである。

 ウサギをつかまえるためのワナや、魚をとるためのしかけと同じように、自分自身をつかまえるための手段として牛を用いたにすぎない。

 牛と人とが一つのものであるということは、まるで純金が土の中にある石から出てきたり、雲が晴れて月が現れてきたりするのに似ている。

 そのひとすじの月の光は、この世にはじめて仏があらわれるずっと前から暗やみを照らしていたのだ。純金も月も、土や雲にかくれていただけである。


 図をみると、旅からもどった人が、荷物をといて、くつろいでいます。あれほど苦労してつかまえ、かいならした牛は、どこにも見えません。牛のことなど忘れてしまったかのようです。この図は、人と牛とが一体となった段階をあらわしています。

 牛は、追いかける目標でもあり、本来の自分の姿でもあります。そして、牛は存在しないのではなく、かくれていただけです。雲が晴れて月があらわれるように、はじめから自分の中に牛はいたのだと「十牛図」は教えます。

 このことに気づくことを、仏教では「さとり」といいます。でも、牛を探そうと思わなければ、自分のことすら分からないままです。


― 頌(じゅ) ―

 牛に乗って家に帰ってきた。

 そこには牛の姿はなく、人はのんびりとしている。

 太陽が高くのぼっても、まだ夢の中。

 牛をつかまえるために使っていたムチも縄(なわ)も、納屋(なや)に置きっぱなしである。


第8図.人牛倶忘(自分のことも忘れる)


 

 第8図「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」を見ていく前に、まず「空(くう)の教え」を説明しておきます。

 たとえば、水があふれんばかりに入ったコップがあるとします。このコップで、別の飲み物が飲みたいとき、どうしますか。水をほかの容器に移したり、飲んだりして、とにかくコップの中を空っぽにすることでしょう。

 コップの中の水は、人のこだわりや価値観です。この、こだわりや価値観を、いったん空っぽにしなければ、ほかの考え方を受け入れたり、ものごとを自由に考えることはできない、というのが「空(くう)」の教えです。

 たしかに、こだわりや価値観は、ときに迷いをふりはらったり、行動のよりどころになったりする面もあるように思います。しかし、こだわりも価値観も、絶対に変わらないものかといえば、自分の都合や人の意見によって変わってしまうこともあるでしょう。

 こんなふうに、自分では確かなものだと思っていることでも、じつは案外たよりないものだったりするのです。たよりないものに、いつまでもしがみついていてはいけません。それは、川に流されているのに、自分で泳いでいると思いこんでいるようなものです。


― 序 ―

 ああしたらいいだろうか、こうしたらいいだろうか、という迷いの心からは抜け出した。かといって、何もかも分かったような、さとりの心にも、もはや、とどまってはいない。

 仏さまがいる世界にいつまでも遊んでいることはない。さとりの心にとどまれば、「さとり」ということに迷ってしまう。仏さまのいない世界ならば、なおさら、さっさと走りぬけていきなさい。

 これが迷いだとか、あれが「さとり」だとか、そんなささいなことに心をうばわれなければ、たとえ観音さまでも、その心を見ぬくことは難しいだろう。心に何の考えもなければ、見ぬきようがないからである。

 さて、あるお坊さんが修行しているところに、鳥が花をくわえてお供えに来た。お坊さんがさとりを開いたら、鳥はもう来なくなった。さとったことを鳥にまで見ぬかれているとは、なんと恥ずかしいことではないか。


 今回の「十牛図」には、何も描かれていません。第1図からずっと描かれてきた、旅人の姿も見えません。まさに「空(くう)」です。自分の都合も、立場も、知識も、経験も、すべて空っぽになった状態です。

 旅人は、自分のやるべきことは何か、幸せとは何かを探していました。「さとり」とは、その答えが自分のなかにすでにあったと気づくことです。しかし「十牛図」は、その「さとり」でさえ忘れなさいと説いています。ひとたび目標や幸せに気づくことができたなら、もはやあれこれ考える必要はないからです。


― 頌(じゅ) ―

 持っていたムチも、牛をつないでいた手綱も、自分自身も、牛さえも、何もかもが消えてしまった。

 青空が、はるか遠くまで広がっていて、出した手紙はどこまでいっても届きそうもない。

 真っ赤に燃える炉のなかに、どうやって雪をたくわえておくことができるだろうか。

 ここまできて、ようやく達磨大師(だるまだいし)の教えにぴったり同じになるのである。


第9図.返本還源(すべて元通りとなる)


 

 お盆が近づきますと、各家で精霊棚(しょうりょうだな)がまつられることがあります。そして、キュウリで作った馬と、ナスで作った牛が飾られます。これは、ご先祖さまに馬に乗って早く家に来ていただき、帰りは牛に乗ってゆっくりと戻ってもらおうという願いがこめられた風習です。

 また、盆の入りと盆の明けに、玄関先やお墓で行われる迎え火と送り火も、ご先祖さまの道を照らす明かりです。

 お盆の施餓鬼会(せがきえ)は、文字どおり餓鬼(がき)に施すことによって、その功徳(くどく)でご先祖さまを供養しようというものです。餓鬼とは、物をもらってばかりで与えることのないまま亡くなった人のことです。

 餓鬼に食べ物や、浄水(じょうすい)を施すことで、自分の中にある「むさぼりの心」を見つめ、受けた恩に感謝するきっかけの行事でもあります。

 さて、「十牛図」もあと2枚となりました。「返本還源(へんぽんげんげん)」は、「元にもどり、はじまりにかえる」という意味です。


― 序 ―

 どんな人の心でも、生まれてきたときは清らかで、ちり一つさえついてはいなかった。それが、月日がたち、経験をつむと、自分なりのものの考えが、心をくもらせてしまう。

 だから、この世界の移り変わりをながめても、はやりすたりにまどわされないで、心に何のこだわりもなく、ありのままに見ていくことが大切だ。

 それは、この世界を幻のように、はかないものだと見なさい、というのではない。本来の、清らかな心で見れば、世界はそのままで美しいのである。どうしてむずかしい修行をする必要があるだろうか。

 湖の水は緑であり、遠くの山は青である。そんなことは歩きまわらずに、ただすわってながめていれば分かったはずなのだ。


 日々のいそがしさの中で、幸せを感じたり、目標を見失ったりすることがあります。また、知識や経験が増えてくるにつれ、あれこれ考えをめぐらせてしまいます。そんなときは、悩みや迷いだけでなく、幸せや目標のことも忘れればいいのです。苦労したあげく手に入れたものは、そう簡単に失うものではありません。

 風が吹けば花びらは散ります。でも、だからといって木が枯れるわけではありません。花にこだわるより、根をしっかり張ることのほうが大切なのです。


― 頌(じゅ) ―

 牛を求めて旅をしてきたが、結局もとにもどり、はじまりにかえって、牛も見えず、自分もない。

 これでは、何も見ず、何も聞かずにきたようなものだ。

 まるで、家の中にいるのに、目の前の庭にある、物に気づかないのと同じである。

 旅に出るずっと前から、湖は広々としていたし、花も赤く咲いていたのだ。


第10図.入鄽垂手(町に出て生活する)


 

 仏教では、迷いや悩みの世界をこちらの岸「此岸(しがん)」、幸せのある世界を向こうの世界「彼岸(ひがん)」といい、その間には大きな川が流れているとされています。お釈迦(しゃか)さまは、この川を渡って彼岸にたどり着くには、6つの方法があると説きました。

1、布施(ふせ)……施(ほどこ)し

2、持戒(じかい)……戒(いまし)め

3、忍辱(にんにく)……忍耐(にんたい)

4、精進(しょうじん)……努力

5、禅定(ぜんじょう)……坐禅

6、智慧(ちえ)…… 叡智(えいち)

 「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の終わりの部分に「掲諦(ぎゃてい) 掲諦・・・・・・」ではじまる真言(しんごん)があります。

 真言とは、お釈迦さまが話されていた当時の言葉のことで、唱えると功徳(くどく)があるといわれます。この般若心経の真言の意味は、「自分は渡った。人も渡った。彼岸に着いた。みんなで彼岸に着いた。さとりが成就した。」というものです。

 修行した人だけが幸せになるのではなく、すべての人が幸せになることを仏教は目指しているのです。

 それでは「十牛図」の最後の段、「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」を見ていきましょう。


― 序 ―

 柴(しば)の門を誰にも知られず、ひっそりと閉ざしてしまえば、お釈迦さまでも観音さまでも、門のなかを知ることはできない。

 そのように、自分がさとりを得たことを表にあらわさないで、昔の立派な人のまねをしないで歩いていく。でも、自然と同じ道を歩いているのだ。

 そうして、空っぽのひょうたんをぶら下げて町に行き、疲れたら杖(つえ)をついて家に帰る。

 仏さまの教えにもしばられず、酒屋にも魚屋にも行って、会う人みんなの心を安らかにしていくのである。


 図に描かれている布袋(ほてい)さんは、中国の唐の時代の禅僧がモデルとされ、日本では七福神(しちふくじん)の一人として知られています。大きな袋には、人からもらったものが入っており、人に会うとそれを取り出して、あげていたということです。

 さて、この布袋さんは、牛を探していた、かつての旅人です。目標を見つけ、見失っていた自分を取りもどした旅人は、町に行って人々と交わります。身なりにこだわらず、威厳(いげん)もありません。仏教で禁じられているお酒も飲むし、魚も食べます。そうして、出会った人の考えや行いに影響を与えていきます。そして、それは同時に自分自身の成長にもつながっていくのです。


― 頌(じゅ) ―

 その人は胸をあらわにし、はだしになって町に入ってきた。

 土にまみれ、泥をかぶりながら、その顔は笑いに満ちている。

 仙人が持っているという不思議な力があるわけでもない。

 ただ、枯れ木に花を咲かせるように、人々を救っていくだけだ。

 

<おわり>


 

このページのトップへ