観音経

観音さまのお経


 観音経の正式な名前は「妙法蓮華経 観世音菩薩 普門品(ふもんぼん)第二十五」といい、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)=法華経(ほけきょう)というお経の第二十五章で、観音さま(観世音菩薩)は、あらゆる苦しみから人々を救ってくれる仏さまである、と説かれています。

 長い名前なので、「観音経(かんのんぎょう)」や「普門品(ふもんぼん)」と呼ばれます。


 観音経は名前だけでなく、木魚にあわせて読むと、15分くらいかかるほどの長いお経です。ちなみに、般若心経では2分30秒ほどになります。

 そんな長い観音経ですが、前半3分の2が本文で、後半3分の1が偈文(げもん)という漢詩のようなもので書かれています。偈文は「世尊妙相具」から始まるので、「世尊偈(せそんげ)」ともいいます。


 お釈迦さまはインドにある霊鷲山(りょうじゅせん)という小高い山で、よく説法を行いました。観音経もこの場所で説かれたといいます。

 その日は、観音さまについての説法があったのでしょう。説法が終わると、人々を代表して無尽意菩薩(むじんにぼさつ)という、尽きることのない意志を持つ菩薩が質問をしました。

 以下、太字が観音経の訳文です。


 そのとき、無尽意菩薩は立ち上がって、相手に尊敬を表すために右肩をあらわにし、お釈迦さまに向かって合掌し、こう言いました。

 「世尊(お釈迦さま)。あなたは観世音菩薩のことを、どういう理由で観世音(世の声を観る・聞く者)と名づけたのですか?」

 質問を受けて、お釈迦さまは無尽意菩薩に言います。

 「無尽意菩薩よ。もしも数えきれないほど多くの人々が苦しみ悩んでいても、観世音菩薩の名を聞き、その名を一心にとなえるなら、観世音菩薩は、すぐさまその声を聞きつけ、みんなを救い出す。それで観世音と名づけたのだ。」


 菩薩(ぼさつ)とは、「さとりを求めて修行する者」の意味です。さとりを開いた仏さま=如来(にょらい)は遠い存在なので、あえてさとりを開かず、人々=衆生の身近にいて、その苦しみを救おうというのが「菩薩」なのです。


だれもが観音さま

 「観音経」というお経は、観世音菩薩(観音さま)について説かれたお経で、観音さまは人々の苦しみの声を聞き、救ってくれる菩薩です。

 そして、観世音菩薩という存在は、だれか特定の人物のことを言っているわけではありません。修行をする者の理想の姿が「観音さま」なのです。


 さとりを求めて修行する人のことを「菩薩」といい、「観世音」とは世間の声を聞くことですから、困っている人がいて助けようと思う人がいれば、その人が観世音菩薩なのです。

 ですから、観世音菩薩といっても、何か特別な力を持っている人、というわけではありません。そういう心がある人は、だれもが観音さまですよ、と説いているのが観音経の教えです。


「もし、観世音菩薩の名前を心に念じ、とどめておくならば、たとえ、はげしく燃える火の中に入ったとしても、焼かれることはないだろう。それは、観世音菩薩が強い力を持っているからである。」


 お経を文字どおり読むと、「火の中に入っても焼けないのが観音さまの力なら、やっぱり不思議な力を持った人のことをいうのではないか」と思いますが、そうではありません。

 ここに出てくる火は「怒りの心」のたとえです。火事のように怒りは、他人も自分も、何もかも焼き払ってしまいます。

 そんな怒りの心が、だれにもあるように、その怒りをしずめることも、だれもができるのではないか、と説くのが観音経です。

 怒りが燃え上がりかけたら、「南無(なむ)観世音菩薩」と、自分の中の観音さまに怒りを吸い取ってもらうように念じてみましょう。「南無」は「おすがりします」の意味です。


「また、ものすごい勢いの水に流されることがあったとしても、観世音菩薩の名前をとなえれば、すぐに浅いところに、たどり着けるだろう。」


 これも、実際に水に流されているのではなく、欲におぼれているたとえです。やはり「南無観世音菩薩」と、その名をとなえれば、欲の深みにはまることはない、と説きます。


ひと呼吸が大切

 どんな人でも悩みはあります。そして、その悩みは一人ひとり違うことでしょう。

 お釈迦さまは、人によって違う悩みにこたえるため、たとえ話によって教えをわかりやすく伝えようとしました。

 お釈迦さまが亡くなったのち、弟子たちが集まって、その教えをまとめたのがお経です。


 お釈迦さまは、悩みや苦しみを生み出す原因を考えました。そして、怒りの心をおこしたり、欲におぼれることなどが、その原因であると気づいたのです。

 観音経には、「南無観世音菩薩」ととなえれば救われますよ、と繰り返し説かれています。観音さまの名前をとなえ、ひと呼吸おくことで気持ちを落ちつかせて、ものごとを冷静に見つめることが大切なのかもしれません。


「もし、たとえば人々がみんなで金銀財宝を求めて航海に出て、暴風に船が流されて、人食い鬼の住む島にたどり着いたとしても、その中のたった一人でも『南無観世音菩薩』ととなえるなら、観世音菩薩はその窮地(きゅうち)からみんなを救い出すだろう。そういうことで観世音と名づけたのである。」


 これは人生を航海にたとえて、多くの人が誘惑の風に吹かれ、困難な状況におちいっている時こそ、落ちついて自分を取り戻すことが大切だ、と説いているのです。


「もし、たとえば誰かが今まさに、罪もなく処刑されようとしている時、観世音菩薩の名をとなえるなら、刀は次々に折れて救われるであろう。」


 文字どおり読むと、「一心に観音さまの名をとなえるなら、処刑係の刀が折れて、命が助かるだろう」という意味ですが、これもたとえ話になっています。

 納得できないことや理不尽なことに巻きこまれてしまうことも、苦しみを生む原因の一つです。そういうときも感情にまかせず、「南無観世音菩薩」と冷静になることで、人を傷つけず、自分も傷つかないでいられる、と観音経は説くのです。


人の悩みは変わらない

 観音経には、いろんな「たとえ話」がありました。それは、「観音さまの名前をとなえれば、火(怒り)に焼かれず、水(欲)におぼれず、風(誘惑)に流されず、刀(争い)で斬(き)られない。」というものでした。

 「南無観世音菩薩」とひと呼吸おくことで、心を落ちつかせる大切さを説いています。


 観音経などのお経をみてきますと、お釈迦さまが生きていた当時と、今私たちが生きている現代では、暮らしがいくら変わっても、人の悩みは全く変わっていないことに、あらためて気づかされます。

 昔の人も、自分と同じように悩んでいたと思うと、少しは心が軽くなるような気がしませんか。


「もしも、この世界のいたるところに、夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)といった恐ろしい鬼たちが満ちあふれて、人々を苦しめようとしても、『南無観世音菩薩』ととなえれば、それを聞いた鬼たちは、人々を恐ろしい目で見ることはできなくなり、危害を加えることもできなくなる。」


 お経に出てくる「夜叉(やしゃ)」や「羅刹(らせつ)」とは、古代インドに伝わる鬼神のことで、「自分勝手な心」を恐ろしい鬼にたとえています。

 だれでも、つい自分を中心に、自分の都合ばかりを考えてしまうものです。

 そんな恐ろしい心に支配されないように、自分の中の観音さまに気づきましょう、というのがここでの教えです。


「また、たとえば罪があってもなくても関係なしに、手足の自由を奪われ、繋(つな)がれ閉じ込められている人がいるとして、その人が『南無観世音菩薩』ととなえるならば、縛(しば)りつけているものはことごとく壊れて、ただちに救われるのである。」


 だんだん年を重ねてくると、「こうでなければいけない」というように、ものごとにこだわりが出てきてしまうことがあるかもしれません。

 誰かに強制されているわけではないのに、自分で自分の考えや行動を制限してしまいがちです。

 しかしそれでは、まるで自分で自分を縛(しば)っているようなものだと仏教では考えます。

 そんな不自由さを断ち切ることができるのも、やはり自分自身なのでしょう。


畏れ(恐れ)を無くす

 「施無畏(せむい)」という言葉があります。「畏(おそ)れを無くすことを施(ほどこ)す」という意味で、人々に心の安らぎを施す観音さまを表す言葉といわれています。

 観音経には、くり返し「観世音菩薩の名前をとなえれば救われますよ」と説かれています。しかし、現実に「観世音菩薩」という人がこの世にいて、苦しみから救ってくれるわけではありません。

 お釈迦さまがさとったように、苦しみは自分で乗り越えるしかないのです。

 そこで、不安な心を落ちつかせる「よりどころ」として「南無観世音菩薩」ととなえるのです。

 健康や人間関係、将来のことなど不安な心があるかもしれません。しかし、それは自分だけではなく、誰にもあるものなのです。


「もし、この世界が人の命や財産を奪う者で満ちあふれているならば、そのなかを貴重な財宝を持った商人たちが隊列を組んで行くことは、とても危険である。

 そこで、その商人の中の一人が言うには、『みなさん、恐れることはありません。みんなで心を一つに観世音菩薩の名前をとなえましょう。観世音菩薩は、人々から恐れの心を取り去ってくれる仏さまなのですよ。みんなで観音さまの名前をとなえたなら、恐ろしい盗賊に出会っても、逃れることができるでしょう。』

 これを聞いた商人たちは、いっしょに『南無観世音菩薩』と声に出してとなえ、恐ろしい気持ちからまぬがれることができたのである。

 無尽意菩薩よ。観世音菩薩とは、このように強い力があり、それは山のように高く大きいのだ。」


人の欲は消せない

 多い少ないは別として、欲のない人はいないと思います。仏教でも、人には財欲・性欲・食欲・名誉欲・睡眠欲の「五欲」があるといいます。

 欲があることは悪いことではありません。欲も生きていくためには必要でしょう。しかし、欲は多すぎると、苦しみの原因にもなるのです。


 人の欲には限りがありませんから、求めても求めても、心は満たされなくなります。満足できないこの苦しみは、求めつづける限り、永遠に消えることはありません。

 観音経には「観世音菩薩を心に念ずれば欲はしずまる」と説かれています。欲は消すことはできません。「南無観世音菩薩」と一心にとなえ、欲をそらすしかない、というのです。


 仏教では、人の苦しみは三つあり、欲による「むさぼりの心」がその第一です。

 残りの二つは、感情に流されておこす「怒りの心」と、自分の都合で物ごとを考えてしまう「迷いの心」で、これら三つを、人の心をむしばむ毒にたとえて「三毒(さんどく)」といいます。


「もし、何でも欲しくて欲しくてたまらないときは、観世音菩薩を念じ、つつしんで敬(うやま)えば、「むさぼりの心」はおさまるであろう。

 もし、腹が立って仕方がないときは、観世音菩薩を念じ、つつしんで敬えば、「怒りの心」はおさまるであろう。

 もし、自分の都合で物を考え、冷静に判断ができなくなったときは、観世音菩薩を念じ、つつしんで敬えば、「迷いの心」はおさまるであろう。

 無尽意菩薩よ。観世音菩薩には、このように人々の苦しみを救う大きな力があるのだ。だから、いつも心に念じていなさい。」


観音さまは変幻自在

 突然ですが、観世音菩薩(観音さま)は男性でしょうか?それとも女性でしょうか?

 菩薩というのは、お釈迦さまの修行時代の姿をあらわしているので、男性のように思いますが、仏像の観音さまを見ると、やさしい表情でやわらかな雰囲気は、女性のようでもあります。


 お経には、「観世音菩薩は人々を救うために、さまざまなものに姿を変えた」と書かれていますから、「観音さまは男性でもあり、女性でもある」というのが、仏教としての答えです。

 観音さまは、実在の人物ではありません。お釈迦さまの教えを表現するために考えられたものです。お釈迦さまは、相手に応じて説法を変えたといいますから、まるで観音さまの姿のようです。


 観音さまは「智慧(ちえ)」と「慈悲(じひ)」の仏さまである、と説かれます。「智慧」とは頭の良さではなく、「ものごとをそのままに見ていくこと」です。花を見て、ただ「きれいだなあ」と思う心です。

 一方、「慈悲」は「思いやりの心」のことです。困っている人がいたら助けずにはいられない心です。

 「観音経」には、智慧も慈悲も、一生懸命に願う気持ちから生まれる、と説かれています。


「たとえば、ここに子供(さとり)を授かりたいと願う女性がいて、観世音菩薩を心の底から拝み、お供えをするならば、男の子を望めば、福徳と智慧を持った男の子(智慧の心)が生まれ、女の子を望めば、美しい慈悲の心を持った女の子(慈悲の心)が生まれることだろう。

 智慧と慈悲を持って生まれたこの子たちは、よい資質を身につけているので、多くの人から愛され敬われるのである。

 無尽意菩薩よ。観世音菩薩には、このような力があるのだ。

 もし、観世音菩薩をつつしんで敬い、心から拝むならば、だれであっても幸せになれるであろう。

 こういうわけで、だれもがみな、観世音菩薩の名前を心に念じておくとよいのである。」


仏教用語は難しい?

 世の中は、専門用語であふれています。たとえば、「コンプライアンス」という言葉があります。これは、法律や会社の規則をしっかり守る、という意味です。

 そして、仏教にも多くの「仏教用語」があります。「供養(くよう)」や「功徳(くどく)」という言葉がそうです。


 「供養」はもともと、仏・法(教え)・僧の「三宝(さんぼう)」に対して、食べ物や衣服などをお供えすることが、供養の言葉の意味でした。

 しかし、日本ではお葬式や法事でお焼香をして、亡くなった方やご先祖さまに手を合わせることを「供養する」というようになりました。

 追って(亡くなったあとから)供養するので、これを「追善(ついぜん)供養」といいます。


 人や社会のためによい行いをすると、自分にもそれが返ってくるということが「功徳(くどく)」の言葉の意味です。

 そして、お釈迦さまは、このことを「あらゆるものごとには、必ずつながりがある」と説きました。


「無尽意菩薩よ。もし、ある人が、六十二億もあるといわれるガンジス川の砂つぶほど数多くの菩薩の名前を心に念じ、命のあるかぎり、食べ物や飲み物、衣服、寝具、薬などのお供え(供養)をしたら、その男か女の人には、多くの功徳があるかないか、どう思うか?」

(お釈迦さまのこの質問に)無尽意菩薩は「とても多くの功徳があると思います。」と答えました。

すると、お釈迦さまはこう言いました。

「もし、別のある人がいて、観世音菩薩の名前を心に念じ、ひとときでも拝んでお供えをしたなら、その人と、多くの菩薩の名前を念じて多くのお供えをした人と、功徳に差はないのである。そして、この功徳は未来永遠に尽きることはない。

 無尽意菩薩よ。観世音菩薩の名前を心に念じることは、このように計り知れないほどの福徳(功徳)をもたらすのである。」


苦しみに応じて姿を変える

 観音経は、無尽意菩薩(むじんにぼさつ)が、お釈迦さまに、観世音菩薩の名前の由来を聞くことから始まりました。

 お釈迦さまは、「観世音という名前は、世間の声をよく聞くという意味だから、『南無観世音菩薩』とその名を一心に念ずれば、どこにいても、その力で救ってくれるであろう」と説きました。


 すると、無尽意菩薩はさらに、「観世音菩薩は、どうやって人々を救ってくれるのですか?」と質問します。

 これに対してお釈迦さまは、「その人の苦しみに応じて、観世音菩薩は姿を変えて救うであろう。」と答えました。

 これは、たとえばお医者さんが、病気や患者の体質に応じて薬を与えるようなものです。これを「応病与薬(おうびょうよやく)」といいます。


 無尽意菩薩は、お釈迦さまに質問しました。

「お釈迦さま。観世音菩薩はどのようにして、苦しみの世界をどこにでも行き、人々に教えを説くのでしょうか?どんな方法で救っていくのでしょうか?」

 これに対して、お釈迦さまは無尽意菩薩に言いました。

「無尽意菩薩よ。もし、ここに苦しんでいる人がいて、仏の教えによって救えるならば、観世音菩薩は自分の姿を仏に変えて、その人に仏の教えを説くであろう。

 さまざまな縁でさとりを開いた修行者によって救えるのであれば、観世音菩薩はその修行者に姿を変えて、さまざまな縁によってその人に教えを説くであろう。

 教えを聞いてさとりを開いた修行者によって救えるのであれば、やはり観世音菩薩はその修行者に姿を変えて、聞いた教えを説いてその人を救うのである。」


 観音さまは、人に応じて姿を変え、その数は三十三におよぶと観音経には書かれています。そして、だれかを助けたいと思う「慈悲の心」があれば、だれもが観音さまになるのです。


目的は一つ、手段はさまざま

 日本各地に「三十三観音霊場」があります。これは、観音経に「観世音菩薩は人々の苦しみに応じて、その姿を変える」と書かれており、その数が「三十三」であることに由来します。

 人々は、今も昔も、苦しみから救われることを願い、霊場をめぐりました。


 観音さまは、たとえ仏教ではないインドのほかの宗教の神さまになってでも、またそれが悪魔の化身であったとしても、それで人々が救うことができるなら、その姿となって教えを説くであろう、と観音経に書かれています。

 仏教の目的は「心静かで、安らかになること」ですから、そのための手段はさまざまであることを観音経は教えてくれるのです。


「(もし、ここに苦しんでいる人がいて)煩悩(ぼんのう)から離れたインドの神である梵天(ぼんてん)によって救えるのであれば、観世音菩薩は清らかな心を持つ梵天となって、教えを説くであろう。

 よい行いをするインドの神、帝釈天(たいしゃくてん)によって救えるのであれば、観世音菩薩は帝釈天となって教えを説くであろう。

 悪魔の化身である自在天(じざいてん)という神であっても救えるのであれば、観世音菩薩は自在天となって教えを説くであろう。

 悪い行いをする大自在天(シバ神)であっても救えるのであれば、観世音菩薩は、大自在天となって教えを説くであろう。

 天大将軍という強い意志を持つ者となって救えるのであれば、観世音菩薩は天大将軍となって教えを説くであろう。

 徳を積み、人の話をよく聞くインドの神、毘沙門天(びしゃもんてん)となって救えるのであれば、観世音菩薩は毘沙門天となって教えを説くであろう。」


姿を変えて教えを説く

「観世音菩薩は三十三もの姿に身を変えて人々を救う」と観音経に説かれており、まず三つの仏さま(お釈迦さま・自力でさとった修行者・教えを聞いてさとった修行者)となって救うと書かれています。

 これは、仏の教えを聞いて学ぶことの大切さをあらわしています。


 つづいて、「観世音菩薩は六つのインドの神さまに姿を変えて人々を救う」と書かれています。そして、その神さまとは、地元の人々が信じていた、もともと仏教ではない神さまのことです。

 これは、たとえ仏教以外の神さまであっても、苦しみから救われるのであれば、仏教にこだわらなくていい、という教えをあらわしています。人々が救われるという目的が大事なのです。


「(もし、ここに苦しんでいる人がいて)人の上に立つ王さまとなって救えるのであれば、観世音菩薩は王さまとなって教えをと説くであろう。

 お金持ちの長者となって救えるのであれば、観世音菩薩は長者となって教えを説くであろう。

 出家せず在家のままで修行する居士(こじ)となって救えるのであれば、観世音菩薩は居士となって教えを説くであろう。

 宰官(さいかん)とよばれる役人となって救えるのであれば、観世音菩薩は役人となって教えを説くであろう。

 バラモンという古代インドで儀式をつかさどる者となって救えるのであれば、観世音菩薩はバラモンとなって教えを説くであろう。」


 仏や神だけでなく、観世音菩薩は人間の姿にもなって人々を救います。ここで「王さま」や「長者」といった力や財産を持つ者とならんで、修行者である「居士」が入っているのは、力や財産の豊かさと同じように心の豊かさも大切であるということを示しているかもしれません。


「その人」が観音さま

 日本各地には、さまざまな観世音菩薩像があります。「観音さまは男性だろうか?女性だろうか?」と思うことがありますが、理屈で考えれば、「菩薩」とは、お釈迦さまの修行時代の姿ですから「男性」が正解なのかもしれませんが、観音さまのやさしい表情や和(なご)やかな姿を見ていると、「女性」のようでもあります。

 そして、その答えは観音経にありました。苦しむ人を救うために姿を変えてあらわれるのが観世音菩薩なのだから、「男性も女性もない」のです。


 また、観音経には「観世音菩薩は子供の姿となって人々を救う」と書かれています。

 中国の唐の時代、趙州(じょうしゅう)禅師という方は、十八歳でさとりを開き、南泉山(なんせんざん)で修行を続け、六十歳にして諸国をめぐる旅に出ました。そのとき禅師は「たとえ七歳の子供であっても優れているのなら、私はその子に教えていただこう」と周囲に語ったと伝えられています。


「(もし、ここに苦しんでいる人がいるならば)出家した男女である比丘(びく)・比丘尼(びくに)や在家の仏教信者の男女である優婆夷(うばい)・優婆塞(うばそく)となってその人を救うことができるなら、観世音菩薩は出家や在家の男女の姿となって、教えを説くであろう。

 お金持ちである長者(ちょうじゃ)の妻や娘、在家のままで修行する人である居士(こじ)の妻や娘、役人である宰官(さいかん)の妻や娘、儀式をつかさどる人である婆羅門(ばらもん)の妻や娘となってその人を救うことができるなら、観世音菩薩は妻や娘の姿となって、教えを説くであろう。

 童男(どうなん)・童女(どうにょ)といった子供となってその人を救うことができるなら、観世音菩薩は子供の姿となって、教えを説くであろう。」


仏教を守る神さま

 お釈迦(しゃか)さまの時代、インドでは「バラモン教」が盛んでした。「人の身分はインドの神々によって決められたもので絶対である」という教えは、身分による差別を生みました。

 それに疑問を持ったのがお釈迦さまです。「どんな人でも生・老・病・死に悩み、苦しんでいる。身分にこだわるなど意味がないのではないか。」


 やがて、お釈迦さまは出家をして修行し、さとりを開きました。

 お釈迦さまのさとりの一つに「すべてのものごとは縁によってつながっている」というものがあります。自分の出家のきっかけを作ったバラモン教は、お釈迦さまにとって縁を感じるものだったのでしょう。観音経にも、バラモン教の古代インドの神々が、善い神も悪い神も区別なく、ともに仏教を守る神さまとして出てきます。


「(もし、ここに苦しんでいる人がいるならば)天に住む神や水の神の龍神、善行を妨害する神の夜叉(やしゃ)、音楽の神の乾闥婆(けんだつぱ)、争いの神の阿修羅(あしゅら)、鳥の姿をした神の迦楼羅(かるら)、歌の神の緊那羅(きんなら)、へびの姿をした神の摩睺羅伽(まごらか)など、インドのさまざまな神のような、人の姿ではないものとなって、その人を救うことができるなら、観世音菩薩はその姿となって、教えを説くであろう。

 また、仏法を守る金剛力士(仁王)となってその人を救うことができるなら、観世音菩薩は金剛力士の姿となって、教えを説くであろう。

 無尽意菩薩(むじんにぼさつ)よ。観世音菩薩はこのようにさまざまな姿となって教えみちびき、いたるところで人々を救うのである。だからこそ、みんな心をこめて観世音菩薩にお供えをし、感謝するのだよ。」


六つの行い、三つの布施

 お彼岸は、インドや中国にはない日本独自の文化です。

 日本では古くから、春には豊作を願い、秋には収穫を感謝する風習がありました。作物を育ててくれる太陽に手を合わせ(日願・ひがん)、ご先祖さまに農作物をお供えしたことが、お彼岸に先祖供養をするということにつながったといいます。


 仏教では、彼岸とは「向こう岸」、つまり「さとりの世界」をあらわし、私たちのいる悩みや苦しみの煩悩(ぼんのう)の世界から、彼岸に渡るために六つの行いがあると考えました。

(1)布施(ふせ)……与えること
(2)持戒(じかい)……戒めること
(3)忍辱(にんにく)……耐え忍ぶこと
(4)精進(しょうじん)……努力すること
(5)禅定(ぜんじょう)……心を落ち着かせること
(6)智慧(ちえ)……すべては移り変わっていくことを理解すること


 六つの行いの一つに「布施(ふせ)」があります。そして仏教では、三つの布施があると説きます。

(一)財施(ざいせ)……財産を施す
(二)法施(ほうせ)……仏法の教えを施す
(三)無畏施(むいせ)……恐れを取りのぞいて安らぎを施す

 お金だけではなく、人に何かを教えることも、人に安心を与えることもお布施なのです。

「観音経」には、観世音菩薩は人々の恐れを取りのぞく「無畏施をする者」と書かれています。


(お釈迦さまは弟子たちに言います。)

「観世音菩薩は、差しせまった災難に恐れおののく人々の中にいて、その恐怖心を取りのぞいてくれるという。そのため、不安や悩みの多いこの世界において、みんな、観世音菩薩のことを、『恐れや不安を取り除く者』と呼ぶのである。」

 すると、無尽意菩薩(むじんいぼさつ)がお釈迦さまに「お釈迦さま。私は今すぐ観世音菩薩に供養したいと思います」と言って、自分の首にかけていた、とても高価な首飾りをはずしました。そして観世音菩薩に「どうか、この珍しい宝の首飾りをお受け取り下さい」と言いました。

 しかし、観世音菩薩は受け取りません。


心のよりどころ

 お釈迦さまの説法の場で、多くの人々を代表して、無尽意菩薩がお釈迦さまに、観世音菩薩の名前について聞いたことから観音経は始まりました。

 お釈迦さまは、この無尽意菩薩の質問に「観世音とは、世間の音を感ずる、つまり人々の声を聞くという意味である」と答えました。

 そして、「南無(なむ)観世音菩薩」と一心にとなえれば、その声を聞き、苦しみに応じて三十三の姿となって人々の恐れや不安な心を取りのぞいてくれる、と説きました。

 観世音菩薩をよりどころとして、少しでも心が安らかになることが、観音経の願いです。


(「観世音菩薩は人々の恐れや不安を取りのぞいてくれる」というお釈迦さまの話に感動した無尽意菩薩は、観世音菩薩に自分の首飾りを渡そうとしましたが受け取ってくれません。)

 無尽意菩薩は再び、観世音菩薩に言います。「観世音菩薩よ。私たちのために、この首飾りを受け取ってください。」

 そのとき、お釈迦さまが観世音菩薩に「この無尽意菩薩だけでなく、あらゆる修行者、インドの神々や人でない生きとし生けるもの、すべてのもののために、この首飾りを受け取ってはどうですか」と言われました。

 そこで、観世音菩薩は、あらゆる生きとし生けるもののために、その首飾りを受け取りました。しかし、自分の首にはかけずに、首飾りを二つに分け、一つをお釈迦さまに、もう一つを、お釈迦さまより過去にさとりを開いたとされる多宝如来(たほうにょらい)という仏さまのいる仏塔におさめました。

 お釈迦さまは言います。

「無尽意菩薩よ。観世音菩薩はこのように、自由自在に人々のために力を使い、この世界のいたるところにいて、人々を救うのである。」


「世尊偈(せそんげ)」をよむ

 観音経は長いお経で、前半の3分の2は普通の漢文ですが、後半の3分の1は漢詩の文体で書かれています。

 ここからは漢詩の部分になります。お経は「世尊妙相具(せそんみょうそうぐ)」から始まりますので「世尊偈(せそんげ)」と呼ばれます。「世尊」とはお釈迦さま、「偈(げ)」とは仏の徳をたたえる詩のことです。


 観世音菩薩は実在の人物ではありませんが、世の中のさまざまな声に気づき(観世音)、人々を救うためさとりを求めた(菩薩)、お釈迦さまの一面をあらわした仏さまです。

 難しいことを知らなくても、特別な修行などしなくても、ただひたすら「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」と念ずれば、少しは怒りや不安な気持ちが、やわらいでいくかもしれません。


 そのとき、無尽意菩薩(むじんにぼさつ)は詩の言葉で質問しました。

「身も心もすぐれておられるお釈迦さま いまもう一度聞きますが 観世音菩薩の名の由来 観世音とは何ですか」

 無尽意菩薩の質問に、お釈迦さまも詩の言葉で答えます。

「観世音菩薩の行いは あらゆるところに はたらいて 海ほど深い誓(ちか)いを立て はるかなときに思いを超えて 多くの仏のそばにいて 清き願いの心をおこす

 大事なところを説くならば 観世音菩薩の名前を聞き 姿を拝(おが)んで 心にたえず念ずれば あらゆる苦しみは消えるだろう

 たとえ悪い心が起きあがり みずから怒りの炎に落ちても 観世音菩薩の力を念ずれば 怒りの炎はおだやかな池に変わりゆく

 あるいは人生の海に流されて 龍や鬼など災難にあっても 観世音菩薩の力を念ずれば 波にのまれることはない」


苦しみと向き合う

 生きていると、自分ではどうすることもできない苦しみがあることに気づきます。仏教ではそれを「四苦八苦(しくはっく)」といいます。

 まず四苦(しく)とは、「生・老・病・死」の四つの苦しみです。

(1)生(しょう)……生まれること
(2)老(ろう)……老いること
(3)病(びょう)……病気になること
(4)死(し)……死ぬこと

 さらに、お釈迦さまは生・老・病・死の四苦に、以下の四つの苦しみを足して「八苦(はっく)」としました。

(5)怨憎会苦(おんぞうえく)……にくい人と出会ってしまう苦しみ
(6)愛別離苦(あいべつりく)……愛する人と別れてしまう苦しみ
(7)求不得苦(ぐふとくく)……求めても得られない苦しみ
(8)五蘊盛苦(ごうんじょうく)……心も体もすべて思い通りにならない苦しみ


 お釈迦さまは、四苦八苦から逃れる方法はないと説きました。しかしそれは、苦しみから目をそむけるよりも、あえて苦しみに向き合ったほうが、かえって覚悟ができ、心が安らかになると考えたからです。観音経も、だれかから危害を受けても「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」と念じることで苦しみを受け入れると心が落ちつく、と教えています。


「あるいは高い山(須弥山・しゅみせん)から だれかに押し落とされても 観世音菩薩の力を念ずれば 太陽のように空にとどまって落ちていくことはない

 あるいは悪人に追われて 金剛山から突き落とされても 観世音菩薩の力を念ずれば かすり傷さえつくことはない

 あるいは盗賊に囲まれ 刀で危害を加えられようとしても 観世音菩薩の力を念ずれば ことごとく あわれみの心を起こすだろう

 あるいは国王の命令で 刑を受け命が終わろうとしても 観世音菩薩の力を念ずれば 刀はボロボロに折れてしまう

 あるいは捕らえられ 手足をしばられ自由をうばわれても 観世音菩薩の力を念ずれば すっきりと解放されるのである」


自分の中の毒や鬼に気づく

 人生のさまざまな困難を、観音経はたとえ話を使って説明しています。「誰かに毒を飲まされそうになる」「鬼のような恐ろしいものに出くわす」というふうです。

 毒や鬼など、お経に出てくる恐ろしいものは、人間の憎しみや怒りの心のたとえです。憎しみや怒りは誰にでもあります。自分のなかにもある毒や鬼に気づくことが大切であると観音経は説いているのです。


「誰かにうらまれて 毒薬を飲まされそうになっても 観世音菩薩の力を念ずれば 毒を飲まそうとした人にその毒はかえっていく

 あるいは鬼のような 何か恐ろしいものに出くわしたとしても 観世音菩薩の力を念ずれば すべて被害にあうことはない

 たとえ猛獣に囲まれて 鋭い牙(きば)や爪(つめ)を恐れても 観世音菩薩の力を念ずれば 猛獣のほうが走って逃げだすだろう

へびやマムシ、サソリなど 毒のあるものが煙や炎のようにせまってきても 観世音菩薩の力を念ずれば 『南無観世音』の声とともに毒あるものは向きを変えて去っていく

 雷鳴がとどろき ひょうや大雨が降りそそいでも 観世音菩薩の力を念ずれば 雷や雨を降らす雲はただちに消えてなくなっていく」


だれもが観音さま

 観世院菩薩は「観音さま」とよばれ、人々に親しまれている仏さまです。観音とは「声を聞く」という意味で、観音さまを念じれば、悩みや苦しみを聞いて救ってくれると、昔から心のよりどころを求める人々に信じられてきました。

 また、観音さまは「慈悲(じひ)の仏さま」ともいいます。慈悲とは、苦しむ人とともに苦しみ、心に寄り添うことです。


 困った時に助けてもらったり、人に親切にしている人を見かけると、「観音さまのような人だなあ」と思うことがあります。観音経には、「観世音菩薩はどこにでもいる」と書かれています。

 観世音菩薩は、だれの心にもいるといわれています。そして、自分の中にいる観音さまに気づくことを「智慧(ちえ)」というのです。


「困難に立たされ はかり知れない苦しみがその身にせまってきても 観世音菩薩の智慧(ちえ)の教えが その苦しみから人々を救う

 あらゆる声を聞きとる不思議な力を持ち 智慧(ちえ)の教えを実践する観世音菩薩は どんな場所にも 姿を現すのである

(観世音菩薩を念ずれば)悪人が行くとされる 地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)の世界も 人が生まれ・老い・病気になり・死ぬという苦しみも ことごとく消えてなくなる

 すべてを差別なく平等に ありのままに見て あわれみと いつくしみの心で人々を救う観世音菩薩を いつも念じ敬(うやま)い拝むのである

 そうすれば汚れのないきれいな光 観世音菩薩の太陽のようなあたたかな智慧の光があらゆる暗闇をつらぬき 風が吹き火が燃えるような災難を防ぎ 明るく世の中を照らすであろう」


両手を合わせ 観音さまを念じる

 お墓やお仏壇のお参りのとき合掌(がっしょう)しますが、合掌はもともとインドで相手を敬う作法として行われていました。

 インドでは、右手は清らかな手で、左手は汚れた手と考えられていました。両手を合わせる合掌は、きれいな仏の心と汚い欲の心が自分の中にある、という教えのかたちです。

「観音経」には、観世音菩薩(観音さま)を心に念じ拝みなさい、とくり返し説かれています。

「南無観世音菩薩」と心に念じると、自分の中に観音さまが現れます。

 観音さまは、人の苦しみを取りのぞいて安らかにしてくれる仏さまです。

自分のなかにも、観音さまのような心があると気づくことが大切なのです。


「戒めを守ることで あわれみの心が雷がとどろくように起こり いつくしみの心が大いなる雲のようにわき 仏の教えがやさしい雨のように降りそそいで 人々の苦しみの炎を消す

 裁判にまきこまれたり 恐ろしい戦場にいても 観世音菩薩の力を念ずれば うらみはことごとく消えていく

 観世音菩薩の声は美しく心にひびき 清らかで波のように力強く 世の中の声にすぐれているので いつも心に念じるべきである

 観世音菩薩を強く念じて疑うことなかれ 観世音菩薩という仏は 苦しみや悩み 死や災いにあったとき 心のよりどころとなるのだ

 すべての徳をつみ やさしい目で人々を見守り はてしない海のような幸福をあつめる観世音菩薩を 頭を下げて拝むのである」


自分のこととして考える

 お経に出てくる仏さまは、お釈迦さまの教えや姿をあらわしたものと言われています。

 観音経に出てくる観世音菩薩は、お釈迦さまが世間の人々のさまざまな声をよく聞かれた姿をあらわしています。

 また、お釈迦さまは、その人の悩みや苦しみに応じて、説法の内容を変えたといいます。

 観音経のなかで「その人の苦しみに応じて、観世音菩薩はさまざまに姿を変えるのである」と説かれているのも、お釈迦さまの説法のあらわれです。

 お釈迦さまが「この人にはどのように言えば分かってくれるだろうか」と考えて答えた結果、多くのお経が生まれたのです。


 ですからお経というのは、これだけ知っていればあらゆる悩みは消え去る、という万能薬ではありません。

 だれかのために説かれた教えを、他人ごとではなく、自分のこととして考えるところにお経の意味があります。

 観音経は、観世音菩薩が「人の苦しみを聞き、助けていく仏である」と説いています。観音経を聞いた人の心は、観世音菩薩と同じになるのです。


 お釈迦さまの説法が終わったそのとき、持地菩薩(じじぼさつ・お地蔵さま)はすぐに立ち上がって、お釈迦さまの前に行き、こう言いました。

「お釈迦さま。あなたから、観世音菩薩が自由自在に姿を変え、あらゆるところに現れて人々を救う不思議な力のことを聞きました。その力が自分のなかにもあることに気づいたとき、その気づいた人もたいへん多くの徳をつんだのと同じだということを知るべきでしょう。」

 お釈迦さまから観世音菩薩の話を聞いた、この説法の場にいたすべての人々は、みな他人と比べることもなく、自分の中に尊い心、仏の心があることを思い起こしたのであった。

<おわり>


 

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